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平野の街 あっちこっち

このページは、地元在住の郷土史家前田章賀氏のご好意で執筆いただき、祇園神社のある平野の街周辺をシリーズでご紹介していきます。

平野の街あっちこっち 第1回

郷土史家 神戸史談会々員  前田章賀

由緒ある街「平野」

エンドウの名産地

兵庫区の山麓に位置する平野は、北は菊水山、南は大倉山、東は水の科学博物館、西は雪の御所に囲まれた人口1万837人(平成14年現在)の街です。明治22年に湊村に4村合併されるまでは、奥平野村と呼ばれ、明治18年には戸数が132戸で「平野エンドウ、熊内の大根」と呼び親しまれた農村地帯でした。

高麗人が計画した町

神社から見た平野の街
神社から見た平野の街

往古は歴史に富んだ地で、1167年平清盛が病の為太政大臣を辞し出家して14年間住居された地が「平野」なのです。 1180年には都を京都から当地に遷都されました。僅か6ヶ月の短期間でしたが、広大壮麗な福原京は、『高倉院御幸記』からも垣間見ることも出来ます。「福原の中御覧ぜんとて、御輿(みこし)にてここかしこ御幸あり、所の様造りたる所々、高麗人の配しけるも理とぞみゆる。荒田といふ頼盛の家にて笠懸(かさがけ) 流鏑(やぶさめ)など御覧ぜさす云々」とあり、京の都と異なって高麗人が設計施工しただけあって異風情緒に富んだ街並みだったことが推察されます。その善美をつくした居館も1184年の源義経軍の鵯越の合戦で焼失してしまいました。

後醍醐天皇

時代は下がって後醍醐天皇が、隠岐の島に流され北条幕府軍に反旗を翻した出発点が平野なのです。西区の太山寺の古文書に護良(もりなが)親王の令旨により1333年2月15日、兵庫嶋合にて、小平野庄と六波羅探題の勢力と合戦したとの記録があります。小平野庄とは現在の「平野」のことで、赤松軍の居城多多部城(再度山)の支城が五宮神社の東隣りの一帯が「安濃城」と呼ばれた字名です。現在もここから再度山の大龍寺に通じるハイキンギコースとなっています。平野の村民も赤松軍の陣営に食料の運搬を手伝ったといわれています。

楠 正成 自害の地

其の3年後、1336年味方同士であった赤松範資と楠正成は、タモトを分ち湊川の合戦にて正成は孤軍奮闘すれど、足利軍の大軍にはどうしようもなく、『太平記』によれば湊川上流の古びた一庵にて弟正季と七生報国を誓って自決したと記述されています。
湊川神社の本殿の西隣が「正成終焉の地」と伝わっていますが、郷土史家の意見によれば自害したのは平野の楠谷町で首実検した場所が湊川神社の処ではないかと云われています。
江戸時代には平野は三領主の知行地(天領、畠山領、片桐領)となり、畿内でも1村が三領主は、大変珍しいのです。

勝海舟の寓居跡

幕末に神戸海軍操練所を開いた勝海舟の寓居跡が祇園神社東横筋に在り、その東山麓には、禅寺祥福寺があります。明治の文豪夏目漱石と同寺の雲水さんと25通にわたる文通がなされ、漱石も死ぬまでに1度参禅したいと願望していた寺である。先代の師家、故山田無文師は、花園大学学長、妙心寺管長も兼ね、禅を世界に普及した功績は大きい。
又、水の科学博物館(奥平野浄水場)が在る楠谷町には、石川啄木が一番たよりにしていた妹、三浦光子さんが長年居住し、慈善事業をしていた愛隣館跡が在ります。
このように平野には数多くの名所旧跡があり歴史の宝庫です。

兵庫口説(ひょうごくどき)

夏になれば往古から続いている夏の風物詩『祇園まつり』も。 江戸時代、兵庫の名を冠して有名になったものが3つある。1つは「兵庫帆」工楽松右衛門が考案した帆。2つは「兵庫まげ」。佐比江の遊女が結い始めて流行した髪形。3つは「兵庫口説(くどき)」兵庫節とも言い、ニュースを盛り込んだ語り風の盆踊りの歌で平野の祇園まつりの時に「おいそ庄兵衛」等が庶民の間で大流行したと伝わっています。その頃から兵庫の近郊では平野の祇園まつりは老若男女の楽しみの一つであるのです。

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